解説

マイケル・ホーシャム

Michael HorshamTOMATO

アーティスト

写真とは、過ぎ去る一瞬をとらえるサイファーである。サイファーとは、一つの行為あるいはいくつかの行為を目に見える形にしたという結果、ないしは証拠である。サイファーとは、シャッターを切るという一瞬の行為を別の形に変換するものである。シャッターを切るということ、すなわちそれはシャッターを1/24秒、1/100秒(または長さやフィルムスピードがどのくらいであっても)開くことによって、焦平面に光を入れ、ときに本物だったり、ときにバーチャルだったりする被写体を感光板、イメージセンサー、乳剤やフィルムに転化し、半永久的に留めることである。かつてこれは特別な瞬間であった。画像を作るということ。構えて、フラッシュ!ボン! バシャ!見事な写真だ! ニコンが1970年代にモータードライブを開発して高速連写が可能になるまで、写真を作ることはもともと一度限りの事であった。しかし作る行為は加速し続けている。1世紀半の写真撮影の歴史の中で、おそらくその行為は平凡なものになってしまったように思う。少なくとも、あまりに簡単に何度も繰り返すことができるので、それは特別なものではなくなってしまった。「写真」撮影の手段が増殖することは、スマートフォンを持つ全員の選りすぐったハイライトの場面を見せられる機会が増えることを意味する。いまやサイファー/画像は、瞬間を手軽に共有できるコード、ないし成文化なのである。

議論の余地はあるかもしれないが、このような写真の大衆化というのは良いことだ。つまり我々は(少なくとも先進国では)視覚的な理解度の高い文化になってきているのだ。しかしその一方で、これでもかとコードという名の肥料が継ぎ足され、世界中のサーバーという名の畑に積み上げられている。この世界が画像共有に取りつかれた結果であり、誰もが皆イメージメーカーであると思っていることの証なのかもしれない。しかし、インスタグラムのフィルターやフリッカーのフレームを器用に使いこなすことで写真家になれるわけではない。写真家と聞いて思い浮かべるのは、世界のどこかに旅しイメージを作る人、そんなところではないだろうか。イメージの基礎となるもの、すなわち写真家のアプローチとは、普通と違う衝動や欲求などが抽出されて出来上がるものである。夕日を見たとか、靴を買ったとか、ブランチのオーダーが完璧だったとかの証拠として写真があるわけではない。否。自らのイメージを通して物語を伝え続けるのが本当の写真家であるはずだ。

フレーミング、ライティング、シャッターを切ると言った行為を目に見えるものにすることは、一コマ一コマ、その場所その場所、そのモノそのモノの連続した物語を作り上げることである。写真家の目こそが鍵である。このミニ講義を理解してもらえると、桑嶋維の作品の世界に近づくことができる。非常に人目を惹く土偶(始まりが紀元前14000年前まで遡る縄文時代に奉納された人形)の写真は、奥深く静寂で神秘的な物語を内に秘めている。これらの写真を見る時さまざまな問いが心に生まれてくる。それはほかの写真を見ている時には起こらないことである。これは物を肖像画のように撮影した写真である。印刷技術やフレーミング技術はさておき、この奇妙で極めて日本的な物が醸し出す雰囲気とアプローチには連続性がある。ここには日本のモノへの強いこだわりがある。闘牛島・徳之島のシリーズもまたポートレートであるが、こちらはドキュメンタリーポートレートである。この小さな島の闘牛たちは、その傷、体つき、筋肉で歴史を物語る。歴史的にも地理的にも文化的にも日本を代表するものではあるが、それ以上に人間のコミュニケーションやコミュニティがもっとシンプルで直接的で多分もっとパワフルだった時代を伝えてくれるものである。これら闘鶏や闘鶏の写真を通して人間の活動の象徴への興味が続いていくのである。

幾つかの写真やその写真が伝える活動は見るのが辛くなるようなものである。けれど、この活動のドキュメンタリー写真を通して、桑嶋 は我々が急速に珍しくなりつつある手段を使ってお互いどのようにコミュニケーションをとるものなのかという彼の人類学的な興味を表現しているのかもしれない。見て、事実を捉え、それを伝えることは写真家としての役目である。それを人を惹きつけられずにはいられないようなビジュアルで時には美しく見せるのはアーティストの役目である。そのふたつを両立しているのが桑嶋維なのだ。

 

マイケル・ホーシャム/Michael Horsham

イギリス生まれ。 アートデザイン集団 TOMATOのパートナー。TOMATOは1991年に設立以降イギリスにとどまらず国際的にもメジャーなクリエイティブ機関である。1994年から現在に至り、書籍デザイン、芸術インスタレーション及びコマーシャルやキャンペーンなど数多くの制作に関わってきた。クライアントはイギリス放送局(BBC)や沖縄県政府など。メデイア範囲も広く、アート、プロダクトデザイン、音楽やデジタルメデイア制作にも関わってきた。現在英ロイヤル・カレッジ・オブ・アートで講師を務めると同時に新たなコラボ企画にも興味を寄せる。

永遠のアイドル

原文(英語)

ニコール・クーリッジ・ルーマニエール教授:セインズベリー日本藝術研究所リサーチディレクター、大英博物館学芸員

水鳥真美:セインズベリー日本藝術研究所総括役所長

諸橋和子:セインズベリー日本藝術研究所 

桑嶋維(クワシマ ツナキ)は、儚い永遠の影を追っていました。

永遠は存在するのでしょうか?

それは実感出来るのでしょうか?

レンズは、それを捕えることが出来るのでしょうか?

桑嶋の作品は、その型破りな表現で人々を魅了し、同時に忘れられない衝撃があり、絶賛されています。

10年以上にわたって桑嶋は死と永遠の間での相反関係を視覚的に洗練された叙情詩調の表現においてより明瞭にしました。

永遠という存在に我々の望みを投げることによって、彼は歴史や文化を通して生死という命題の解決の糸口を作品化して我々に問いかけています。

桑嶋が「永遠」の概念を探るために撮影したものは、日本の有史以前の縄文時代(14,000-300BC)の土偶(粘土小立像)と器です。

多くの場合、人間の形を表現したと思われるこれら興味深い考古学オブジェクトー土偶や土器への考察を行うことによって、彼は健康と繁栄を求めて具象化された土偶や土器によって彼らの新石器時代の社会生活環境と現代日本社会とをつなぐ表現を試みています。

全く文字がなかった縄文時代の人々は彼らの世界観を伝えるために精巧な粘土オブジェクトを作っていました。土偶は、たとえば、治癒的な特性があると思われていました。

小林達夫教授によると、土偶は、病気や様々な行為によって苦しむ人々の代理として作られて、健康回復や祈願成就することで壊されました。実際には、考古学的な発掘調査では、装飾を施した土偶のほとんどは身体の部分を意図的に破損させていたことが分かっています。桑嶋は無駄なように思われる土偶の破壊行為に当惑していました。

しかし、おそらくそのような華やかなオブジェクトー土偶を破壊することは私たちを「人間」として形成する為に必要な要素の一つかもしれません。

人が備えている力よりもより強大な力を必要だと想像し、それを欲し、願うが為に、人が持ちうる能力を出し切って作ったものを敢えて破壊する行為ーたとえ願いがこもって無いとしてもーこの行為は人間と他の生物とを分けるある種の能力、行為です。

この観点から、桑嶋は、人間の心の断片として粘土ー土偶の破片を見て、そして愛する人の幸福を祈願する意志が永遠の人間に備わっている感情であると考えています。

ニコール・クーリッジ・ルーマニエール教授(セインズベリー研究所リサーチディレクター/大英博物館学芸員)は、桑嶋の写真のスタイルは彼の作品主題の本質を追求するために尽くしているとして、「桑嶋維の作品は縄文人らの暗黙の物語を示唆していて魅力的であり、彼は言葉を用いずに感情に訴えかける独自の世界を創り上げている。」と評しています。

桑嶋がこれらのオブジェクト「永遠」の存在を捉えている間、彼は同時に永遠と崩壊のパラドックスを見るものに連想させます。

「永遠」が本当に永遠になることができるんでしょうか?

彼が魅了されている永遠を阻害する現象である崩壊や腐敗に対する彼の考えは、彼が選んだ制作材料で最も明瞭に表現されています。

たとえば、コロタイプ・プリントやプラチナ・パラジウム・プリントやインクジェット・プリントがあり、それらを所謂デッドストックの印画紙や数多の種類から選び抜いた和紙や、最新プリントに対応して作られた新しい紙等にプリントや印刷する事によって、勿論、それら作品のアーカイブの安定性=命が変動し、それぞれの「永遠」を例示しています。

彼が創りだした「CUBE(キューブ)」は、作品をカプセル化して保護し、それは「永遠」を閉じ込めて保存しようとする手段の具象化であります。

CUBE」と呼ぶ未処置の鋼のフレーム箱に入れることによって、やがてはこれらの鋼のケースはさびて、彼ら自身の自然な腐敗(=永遠の終焉)して行くプロセスが始まり、またその運命に逆らう行為(=延命)としてのメンテナンスを、生かせたいだけ続けていかねばならないという苦闘を強いることで桑嶋は作品所有者に「永遠」を実感させる事を要求しました。

彼は、「永遠」を保存することができるかどうか尋ねているのです。

CUBEの頭のマネキンは、我々がどのように『永遠』を体現するかという物語を示しています。これらのマネキンの頭部に据えたCUBEは、鏡であるものを含む両面イメージで構成されています。

見る者の顔を映す鏡面では、日本の古代の文化または日本の『記憶』を例示して、有史以前の小立像のイメージを表現しています。

桑嶋の考えにおいて、我々の個人の自己認識は、我々自身の個々の経験と我々の古代の「永遠の記憶」の現れなのです。

「桑嶋維は、我々のは我々の普遍的な実存主義の願望を探究する卓越した芸術家です。」と、水鳥真美( セインズベリー日本藝術研究所総括役所長)は、コメントしています。

そして、続けて、

「彼の仕事は、地理歴史上の文化的な境界を越える深い方法で、我々に話しかけます。

我々は桑嶋の作品を 2010年に セインズベリー日本藝術研究所 主催で開催された「UNEARTHED」展(英国ノリッジの the Sainsbury Centre for Visual Arts美術館) で展示することができました。ギャラリーに展示される縄文土偶の彼の写真は、年齢、性別、文化または歴史に関係なく、観る者に想像力を湧き立てて、多岐にわたる方面から桑嶋維の作品展示に敬意を頂きました。」と彼の作品を賞賛しています。

桑嶋維は、大木記念美術作家助成基金等を受賞した日本の芸術家です。

彼は、1994年に美術と写真撮影をセントラル・セントマーティン・カレッジとロンドン・カレッジ・オブ・プリンティングで研究しました。

1998年に日本に戻る前に芸術写真の主部であるロンドンに彼は住んでいました。

彼は日本では、東京と山梨県で活動しています。

グループと単独の展示(京都で奈良美智と他の著名な日本のアーティストとFoil Gallery主催の現代美術展(開催地:禅居庵/京都)や、現代美術展示のためにセインズベリー・センターで開催され、最近、公に展示された展覧会を含む)で、桑嶋維は全国的に、そして、国際的に、広く展示されて芸術家として認知されました。

 

ニコール・クーリッジ・ルーマニエール( Nicole Coolidge Rousmaniere)

ニコール・クーリッジ・ルーマニエールはセインズベリー日本藝術研究所の創設者、初代所長。現セインズベリー日本藝術研究所研究担当所長およびイースト・アングリア大学日本美術文化教授。最近まで大英博物館アジア部日本セクションにIFACハンダ日本美術キュレーターとして出向し、主任キュレーターとして、2019年5月23日から8月26日まで大英博物館のセインズベリー・エキシビション・ギャラリーにて開催された「マンガ展」に携わった。1998年にハーヴァード大学にて博士号を取得。2007年には大英博物館の「Crafting Beauty Exhibition 」を展示企画し、2010年には、大英博物館からは初のマンガ作品である、星野 之宣作「Professor Munakata’s British Museum Adventure(大英博物館の冒険)」の刊行に携わり、翻訳も担当。2012年には「Vessels of Influence: China and the Birth of Porcelain in Medieval and Early Modern Japan」(Bloomsbury Academic社)を書き著した。また、2018年には辻惟雄の「日本美術の歴史」を翻訳したものが東京大学出版会から刊行され、それが第55回日本翻訳文化賞を受賞した。2019年には同書のペーパーバック版がコロンビア大学出版より発売になった。

 

諸橋和子/Kazz Morohashi

アメリカ育ちの日系アメリカ兼イギリス人。英ロンドン東洋アフリカ研究学院にて美術史修士 を取得後、英セインズベリー日本藝術研究所で数々の日本美術と文化の研究と国際的発信・促進に関するプロジェクトに関わる。現在は独自の制作活動やキュレーションも行い、企画は南アフリカから日本やイギリスをベースにした プロジェクトに関わっている。クリエイティブのネットワークづくりにも積極的で、国内外問わず今後も新たな出会いと交流に大きな期待を寄せる。

朱殷 / イントロダクション

一対一の闘争における剥き出しの暴力。

その鮮血を塗りつぶせる愛の色は未だにない。

           作家・丸山健二(「朱殷」帯より。)

小説家丸山健二が本書に寄せたこの言葉にあるように、写真家桑嶋維 (くわしま・つなき)のとらえる世界は、癒しだ、優しさだ、といった あやふやなイメージの世界を叩きつぶす。桑嶋は古来より伝統文化とし て日本各地で行われてきた闘牛、闘犬、闘鶏等「闘う動物」を一心に追 い続けてきた。そこには全身全霊で闘うものの姿を通じて「生きていく 本能」が写り込んでいる。

そして、そこには「最強の力」を次代に伝えようとする遺伝子の意志 と同じ程の、人間と動物の絆なくしてはありえない「営み」が確かに写 っている。

モノトーンのストイックともとれるカバーをひとたびめくると、闘う べくして

選ばれた動物たちの研ぎ澄まされた美しさと、勝利を渇望する 人間のが、

圧倒的迫力で見る者を最後まで引っ張る驚くべき一冊。

 

丸山健二 まるやま けんじ

長野県飯山市出身。1968年以降現在に至るまで長野県在住。

1966年に第23回文学界新人賞を受賞した小説「夏の流れ」が、1967年に

56回芥川龍之介賞を受賞。

男性作家としては依然として最年少受賞者である。その後1973年「雨のドラゴン」、

1976年「火山の歌」がそれぞれ第9回・第12回谷崎潤一郎賞候補作、1987年「月に泣く」が第14回川端康成文学賞候補作となったが、芥川賞受賞の際の騒ぎが不快だったことを理由に賞はすべて辞退した。

文壇とはほとんど関わりを持たずに執筆を続け、中央からは離れたスタンスと

現代都市文明への批判的視座にある力強い生き方から「孤高の作家」とも形容される。

生きるための闘牛

評・立松和平 / 「闘牛島・徳之島」

ーアサヒカメラ(朝日新聞社刊)よりー

牛は静かな動物である。食べるものは草や穀物で、闘って相手を倒し、倒したものを食べるわけではない。

牛が闘うとしたら、人間のためである。代理の闘争なのだ。

思えば、闘争はほとんど何かの代理なのである。戦場で命のやり取りをする兵士は、自分自身のためというより、誰かの代理で戦闘をしている。ボクシングやK-1に熱狂する大衆は、代理で闘ってくれる選手に何かを仮託しているのだ。もし代理でくれるものがいなければ、いつの時代でも大衆の中から闘争心があからさまに滲み出してくる。それはつまり共同体の破滅なのだ。

写真集「闘牛島 徳之島」のページをくりながら、そんなことを考えた。

まず福田和也の文章がいい。「徳之島にはじめて足を踏み入れた時に覚えた死の臨在という直感は、最後まで覆されることがなかった。ただ、それは死の匂いというよりは、死人の、死者の匂いといった方がいいのかもしれないが」

南島は生も死もあからさまで、生の鮮烈な輝きが満ちていると同じその光の中に、死の匂いがある。私などが南島にひかれる理由は、そのあたりにある。

奄美大島には相撲があり、徳之島には闘牛がある。人間の代理として闘うのが牛である以上、当然それは苛酷なことになる。奄美大島の相撲を見ていると、当然自らの肉体を鍛えていったあげくの真剣勝負でありながら、親子相撲という和解が根底にあるように思う。父と息子が闘い、いつしか父は子に破れる。その時を慶賀とするのである。

だが徳之島の闘牛は和解ではなく、もっと煮詰められたような闘争の持つ純粋さがあるようだ。

「勝った牛は泰然としてたたずみ、戦勝に酔った家族や仲間たちが飛び込んで来て踊ったり、縁起づけに子供をまたがらせたりする人々は、敗者に対して、我関せずという調子を貫いている」

闘牛は闘争の純粋結晶ということである。その牛の闘いを、ただ闘争の時間だけを切り離して見つめるのではなく、島の共同体全体を白骨となった過去にまでさかのぼってとらえたところに、本書の重みがある。

闘争がなければ、若者たちは島にとどまらない。闘牛こそが、島人のアイデンティティーである。桑嶋維の写真で、闘う牛や血のしたたる傷口も鮮烈であるが、私は海岸で二人の男がそれぞれの牛を引いている光景が好きだ。一人は少年で、鼻に綱をつけた牛をいかにも大切そうに引いている。もう一人は年齢不詳ながら自らはしゃがみ、牛は海の方を見て立っている。なにげない日常の光景なのだが、人間と牛との間に親密な空気が流れ、永遠ということを感じさせる。

もし闘牛がなかったら、徳之島にはこのような風景はない。牛もいないし、若者もいない。それはぞっとする風景なのだが、おおかたの過疎の島の現実である。

また一頭の牛を囲み、少年たちが得意げにポーズをとっている写真がある。同じ黒ずくめの服装をしているからには、チームらしい。この中で牛だけが無表情なのが、どうもおかしい。こうやって島の共同体が成り立っているのだなと、よくわかるのである。

どこか一点でも蕩尽をしなければ、永遠に向かってつづいていく時間の中で、人は窒息してしまうのである。

だから闘牛も島で生きるためのひっしの営みだ。全体でそのことをよくわからせてくれる写真集なので、まことに

今日的な主張がある。闘牛を入り口にしてやってきた写真家は、徳之島全体を抱きしめているのだ。

私は東京から石垣島に向かう飛行機の中で、この原稿を書いている。石垣で乗り換えて与那国島にいく。

2カ月ほど前、援農隊三十周年記念式典のために行った時、与那国の人たちは闘牛で歓迎してくれたのだった。

(たてまつ・わへい 作家)

立松和平 たてまつ わへい

栃木県宇都宮市生まれ。

主な受賞歴

1970『自転車』で、第 1回早稲田文学新人賞

1980『遠雷』で、野間文芸新人賞

1985アジア・アフリカ作家会議「若い作家のためのロータス賞」

1993『卵洗い』で、第 8回坪田譲治文学賞

1997『毒風聞・田中正造』で、毎日出版文化賞。

2002歌舞伎『道元の月』の台本で、第31回大谷竹次郎賞。

2007小説『道元禅師』で、第35回泉鏡花文学賞。

2008小説『道元禅師』で、第 5回親鸞賞。

絶対色の抽出

評 後藤正治 / 「朱殷」

ーアサヒカメラ(朝日新聞社刊)よりー

かれこれ二十年も前、雑誌の仕事で、奄美・徳之島に滞在したことがある。

町長選挙の最中であった。買収と賭博が横行する、いわゆる奄美選挙をレポートすることが目的だった。

国政から町議会選挙まで、この地においてはかならず賭博選挙が横行する。公職選挙法からいえば明確な

違法行為ではあるのだが、地元民はあっけらかんとこう語ったものだった。「島民全員を警察署に留置する

わけにはいかんでしょう」と。奄美選挙とはいわば男たちのお祭りといった色彩も帯びてあった。

空は広く、珊瑚礁の海は青く、サトウキビ畠が黄色く染まっている。闘牛場を除けば、のどかな南の島だった。

闘牛場を見たのもこのときである。狭い円形の砂地のグラウンドを、もうしわけ程度、スタンドが囲んでいる。

人気のないがらんとした空間に強い日差しが照りつけていた。

闘牛については、当時も、いまもなにも知らない。ただ、しんとした無人の闘牛場を見やっていると、

たたかう牛の鮮血が地面に染み入り、血走った目の男たちの熱い熱狂のひとときが浮かぶように思えた。

 寡黙な写真集である。

写真説明は一切ない。著者略歴に「東京都吉原生まれ」とある。公の地名にはない地であるが、世評、高名なかの地のことであろうか。不敵な面魂の小さな顔写真が添付してあって、著者の感性がぼんやりと伝わってくる。

言葉においては寡黙であるが、本書の主題はシンプルかつ直裁的である。タイトルの「朱殷」とは馴染みのない言葉であるが、大漢和辞典をひもとくと、「赤黒く鮮やかな色」とある。巻末の短い跋に「絶対色」という言葉が使われている。鮮烈な原色、赤。本源的な、ある確かなるものー。それを求めて各地を歩いた軌跡が本書である。

闘牛、闘犬、闘鶏、ボクサー、錦鯉、あるいは匂い立つような原色の花々…..。さまざまな絶対色に彩られた素材を抽出し、プリントアウトし、鋲で貼りつけんとした。

こう記されている。

<肌や髪、瞳に様々な色を持つ人々で世界は鮮やかに着色されているように見えるが、その下地となっているのは、僕らの内を流れる血の色だけなのだ。その色こそが、生きとし生けるもの全てに分け隔てることなく、

神が与えし唯一の色 ー 絶対色 ー というべきものである>

どのみち生きとし生けるものは化粧をほどこして世を渡る。世渡りを重ねるにつれ、だれもが厚化粧を通した交わりに慣れ親しんでいく。そんな日常に馴れ、流される日常ではあるが、ふと皮膚下に脈々と流れている鮮烈な赤いもの、素の地色を見たいと思う一瞬はある。ページをめくっていると、自身のなかにもまだそんな衝動が宿っていることをふと知覚させてくれる。

 巻末の取材先メモを見ると、撮影場所として、闘牛は鹿児島・徳之島、闘犬は高知・桂浜、闘鶏は高知・安芸と記されている。陽光照りつける南国に「絶対色」の世界が根づいてきた。地の側に、たたかいを生み、男たちを熱狂させるものが棲みついているのであろうか。たたかいの場に駆り出される動物たちの一瞬の姿は、猛々しく、物悲しく、また神々しい。

南の島の選挙戦。取材に疲れると海岸線に出て、白いしぶきを上げて打ち寄せる海を見ていた。飽きなかった。ここに空あり海あり黒糖焼酎あり。同じように闘牛あり賭博選挙あり。すべてはこの島の自然な習俗であり、久遠の時間帯のなかに溶け込んでいく。オレはなにを取材してるんだろう…..。そんな思いが湧いてきたものだった。「絶対色」を抽出した写真集をめくっていると、古層に沈む遠い記憶がよみがえってきた。

(ごとう・まさはる ノンフィクション作家)

後藤正治 ごとうまさはる

京都市出身。大阪府立四條畷高等学校を経て、1972年京都大学農学部卒業後、執筆活動に専念。

スポーツや医療問題をテーマとした著作が多い。20074月から、神戸夙川学院大学

観光文化学部教授、副学長をへて2010年学長。20123月末をもって、同学長を退職。

1985年『空白の軌跡―心臓移植に賭けた男たちー』で潮ノンフィクション賞

1990年、『遠いリング』で講談社ノンフィクション賞

1995年、『リターンマッチ』で大宅壮一ノンフィクション賞

2011年、『清冽 詩人茨木のり子の肖像』で桑原武夫学芸賞

南アルプス市立美術館 館長(元山梨県立美術館 学芸課長)

桑嶋 (つなき)は、2005年以降から写真集『闘牛島・徳之島』『朱殷』(いずれも大英博物館、 ヴィクトリア&アルヴ ァート美術館収蔵) 『山梨』の出版をはじめ、エッセイの連載や個展をとおして、作家としての 視線をレンズの向こう に貫きながら、日本の写真美術界に新たな地平を切り開こうとしている、現在もっとも注目したい 写真家の一人であ る。 私が彼の作品にはじめて出会ったのは、2000年に山梨県立美術館のギャラリーで開催された、 ロンドンのポート レート作品を中心とした帰国成果発表展[Air Hole 2000]以降は、猛々しい黒い大牛が角を突き 合う、鹿児島県徳之島の 伝統文化闘牛をテーマにした2006年の写真集を発表し反響を呼ぶ。 中でも特に印象的なのは、闘牛という血の臭う ような激しいドキュメンタリズムは当然ながら、 闘牛場に集う島民達の優しさや穏やかさといった素直な日常の感性 が同居し、相反する二つの感性が一枚の作品に 見事に表現されている。 常日頃から「僕は、写真とは現代の浮世絵だ と思うのです。」と多くの雑誌の中で彼が語っているように、 時代に残りうる傑作を一点でも多く残したいという信 念で対象と対峙しながら「写真表現とはなにか」という 新しい地平を開こうとする、真摯な制作姿勢と若い作家のエ ネルギーを感じるのである。 今回の作品展では、セインズベリー日本芸術研究所や大英博物館に2010年に収蔵され、 その後高い評価を得た彼の 代表作品集『久遠』(プラチナ・P・プリント)の印画技法を基軸に、あらためてアナログか ら現代のデジタル写真までを 写真史を元にすべて洗い直すことで、特にオルタネイティブ・プリントやインク・ジェッ ト写真、動画作品らを混在させ、 また、「光箱/The lights in a cube」と彼が呼ぶ展示法などにより、 新たな自己表現を確立したいとの強い考えを もっている。 あらためて、彼の若い感性と写真への熱い制作エネルギーが、今回の作品展の機会をいただくことで、近い将来日本の 美術界に新たな写真表現として一石が投じられるよう,その成果に限りない期待を寄せながら、桑嶋維を推薦します。

DUNE」編集長

「僕は、写真とは現代の浮世絵だと思うんですよ」と桑嶋維は語る。元々ミュージック・ビデオが好きで、そのディレクターになるべくロンドンに向かったが、彼が最終的に選んだのは、写真であった。九〇年代中頃、ロンドンが久しぶりに才能溢れる若者を世界中に発信した時期であり、慢性化していた英国病を克服し、経済的に繁栄をもたらした時期でもあった。そのロンドンで彼は一体何を学んだのであろうか。

九〇年代のファッション写真は、パリで出版されているインディペンデント雑誌『パープル・ブロウズ』の影響を大きく受けている部分があった。アートとファッションの融合。それまで、少なくともプロのモデルもしくは、それに近いルックスを使って撮影されていたファッション写真の世界で、その辺にいる普通の人々をモデルに起用して、素人とプロの境界線を非常にあいまいなものにした。そして、写真自体も、何らつくり込むことなく、日常の中のロケーションを、まるでスナップ・ショットを撮るような気軽さで撮影している。このスタイルは、世界中の若手フォトグラファー、特に日本の若手フォトグラファーに大きく支持されて、またたく間に雑誌業界を席巻していった。しかし、このスタイルは、本当に優れたセンスを持ったフォトグラファーだけに与えられた特権的なものであって、並のフォトグラファーがやると、ただの手抜きの写真に見えてしまう。たしかに、経費も安くすむし、時間もかからないという雑誌向きのスタイルではあるが、日本のようにまだまだ編集者の写真に対する考え方が甘い状況下では、その手軽さだけが重要視されて、退屈な駄作を大量生産することになってしまった。その果てには、スタイリスト等の素人さえもファッション写真を撮影する結果になってしまった。要するに、パープル的なファッション写真に対する考え方は、日本ではその本質からはずれてしまい、単に手軽さのみが独り歩きする結果となってしまったのである。ただ写真というものを多くの人に広めたという効果は否めないが。

当然のことながら、こういった状況は永くは続かない。末期的な状況に陥ってしまった今、新しい流れが生まれるのは当然といっていいだろう。

桑嶋維の撮る写真は、彼がロンドンに居たこともあるが、このパープル的なファッション写真観とは全く反対に位置しているといっていい。彼の写真は、しっかりとした技術に裏付けされ、その中に時代性と正統的な美学が凝縮されている。ややもすれば古典的といってもいい世界観を絶妙の時代感覚で古臭く感じさせないセンスは、今の状況のような写真業界ではかえって新鮮である。「僕は、浮世絵師の中でも写楽が好きなんです。彼は忽然と現れて、あっという間に消えてしまったけど、多くの傑作を残した。そして、素性もはっきりしていない。僕もそれでいいと思っています。名前はどうでもいいんです。写真が残れば。」

桑嶋維のもうひとつの特徴は、彼が今、山梨県に在住というところである。学生時代は、東京で過ごし、そのあとがロンドンという、世界的な大都市で二十代の時を送り、最終的に到着した場所が山梨という自然に恵まれた場所であったということである。そのことは写真が都市の中からインスピレーションを受ける時代から、自然の中からもインスピレーションを受ける、要するに近代的なテクノロジーと自然とを融合させることによって新しい価値観を表現していこうという世代の主張なのかもしれない。そういった意味で、桑嶋維の表現する世界観に、新しい時代の可能性を感じずにはいられない。

 

林文浩 はやし ふみひろ

林文浩氏は学生時代から編集業に携わっており、「DUNE」の編集長に就任。著書には「外道伝」をはじめアートブックなどが存在し、東京・白金にあるアートスペース「THE LAST GALLERY」を主宰。過去には、Sofia Coppla(ソフィア・コッポラ)監督の映画「ロスト・イン・トランスレーション」に出演したことがあるなど、多彩な活動を行っている。

1993年に林文浩氏により映像・音声の書籍や雑誌を展開する出版社アートデイズ

から創刊された「DUNE」。宮沢りえが表紙を飾った創刊号から菊池凛子が登場した

2008年の第33号まで約15年間、徹底したクオリティーと妥協のない姿勢で制作されてきた。

DUNE」にしかできないカタログ的ではない雑誌本質を伝える雑誌を追求しており、

ニューヨークタイム誌の世界のインディペンデント・マガジンにも選出されている。

「闘牛島 徳之島」

坂川栄治(さかがわ えいじ)

写真:桑嶋維 文:福田和也

ーコマーシャル・フォト(玄光社) 20057月号掲載ー

すがすがしいこの写真家の視線は

もうすでに何かを通り抜けてきているのだろうか

鹿児島県は奄美大島の隣の島、徳之島の伝統文化である闘牛を扱った写真集である。

見終わって感じたことがあった。それはもしこの写真集がタイトル通り、猛々しい黒い大きな牛のぶつかり合いの写真に終始していたとしたら、この写真集はよくある作家の思い入れだけで作られた凡百なものと

何ら変わらないものになっていただろう、ということだった。

この写真集が稀有な位置にある理由は、荒々しい闘牛を追いかけていながら、しっかり徳之島が語られていることだ。とても徳之島が伝わってくるのである。

どうしてこういう写真集が撮れるのだろうと幾度かページをめくって気が付いたのは、写真家の対象に対する距離の持ち方だった。

島の人がおおらかなのか、それとも写真家がそのリラックス感を作り出しているのか、撮る側も撮られる側もいたって自然体なのである。そして、それ以上に素晴らしかったのは、徳之島とその島の人を愛しているというのが伝わってくる桑嶋維の視線だった。

どうしても闘鶏、闘犬、闘牛という「闘う」という文字が付くものには、死の匂いやささくれだった気配、うらぶれた空気のようなものが付いてまわるものだが、桑嶋の写真にはそれが全くといっていいほどないのだ。写っているのは、日本の他の地方ではもう失いかけているのどかな土地の生きる人たちののびやかさと、興奮と歓喜のまつりごとに集中する人たちのすがすがしいまでの熱の交歓。ゆったりとした時間を味わいながら「生きる」ことを謳歌する人間の姿である。だから闘牛の写真集であるはずなのに、私には南の島の人の営みの姿が妙に幸せに見えてしょうがなかった。

桑嶋という写真家の眼差しは、この手の写真集の地平を新たにする可能性を秘めている気がする。

観客の脇の下から捉えた闘牛の試合。地面に折り重なるソテツの影。中途半端な時期の少年の眼差し。牛の体に溶岩のように流れる血の筋。暑さの残る誰もいない放課後の教室。止まったような時間と海と昼寝をする人。いずれも技術と感性が、重くならず軽くならずうまく重なり合わさっている。

この写真家の視線は何かをすでに通り抜けてきているのだろうか。

カラーでモノクロームの写真を撮っているような気がするからだ。

普通ならコマーシャル写真を撮っている人は、こういう写真になると肩に力が入ったり、水分が多かったり、乾き過ぎたりと、どこか濁りを生じるものだけれど、彼の写真にはそれがなかった。

私の目にはそれが新鮮に映った。

並べ方とレイアウトもいい。

 

坂川栄治 さかがわ えいじ

装丁家・アートディレクター。

1952年北海道生まれ。雑誌『SWITCH』の創刊に携り4年間アートディレクションを担当。その後坂川事務所を設立。書籍の装丁だけでなく、広告・PR誌・CD・映画・空間デザインのディレクションをするなど幅広く活動している。 1993年講談社出版文化賞ブックデザイン賞受賞。代表作に吉本ばなな『TUGUMI』、ヨースタイン・ゴルデル『ソフィーの世界』、J.D.サリンジャー/村上春樹訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』など。今まで手掛けた装丁本は3000冊を超える。文章家、写真家としても活躍し、著書に『写真生活』(晶文社)、『遠別少年』(光文社文庫)、『「光の家具」照明』(TOTO出版)、『捨てられない手紙の書き方』(ビジネス社)。

諸橋和子

Kazz Morohashi

美術家

桑嶋維は、写真家の中でもユニークな部類だ。彼が写す犬、鶏、牛はすべて格闘用であり、その写真は暴力が起こる前の命の純粋さを捉えたものである。何年にも渡り、桑嶋はこうした動物とそれを世話する人々の生活、そしてその地域の人々を追っている。いまだ日本のごく限られた小さな地域では、何世紀にもわたる古い伝統に従って、動物を戦わすためにこうした地域性の濃い生き物が繁殖され育てられているのである。この動物たちは大変尊ばれており、格闘は厳格なルールのもとで、お金のためより名誉のために行われている。矛盾して聞こえるかもしれないが、これらの格闘用の動物は多くの場合、天からの授かりもののように大切に、そして高い誇りをもって飼育されているのである。日本人を含む多くの人々が、動物に対してそのような残酷な行いをすることを非難し、痛みを感じる生き物を苦しめることに喜びを見出すような者を嫌悪する一方、桑嶋は激しく戦う動物たちに肉迫するポートレイトを撮影することでこの問題に正面から立ち向かっている。彼は自分の写真を動物虐待防止の手段として用いているのである。「私はこの伝統の記録を残すために写真を撮っています。それが絶滅してもいいように。私の写真は歴史の記録なのです。私の作品の中にその長い伝統が保存されていることを知れば、人々は動物を戦わせることをやめることができるかもしれません。」このような考えのもと、桑嶋は現代的な生活や思考の中では居場所がない多く伝統に対して、彼自身のレンズを通して記録し保存しているのである。この写真展は、もっとも輝かしい成績を収めた闘牛、福田喜和道一号の桁違いの隆盛とその終焉に焦点を当てている。徳之島の闘牛の歴史の中でも最強とされる喜和道一号の栄光は桑嶋のレンズにより永遠となった。喜和道一号は長い間、徳之島の誇りだった。この日本の最南端から500kmのところに浮かぶ小さな島を桑嶋は「闘牛島」と呼ぶ。この島と奄美諸島での闘牛の歴史は強力な薩摩藩により統治されていた400年前に遡る。とりわけ徳之島は闘牛と人々の生き方が濃く混じりあう特異な島として知られている。大判コロタイプによるこの連作において、最盛期と引退後を写した喜和道一号の姿は、その生の儚さと闘牛としての成功とを永遠に留めておくものになっている。プリントは美術印刷の専門家である便利堂コロタイプ工房において、これまで作成されたコロタイプ写真の中でも最も大きい120×120cmになっており、全長5メートルもの圧倒的迫力をもつ写真彫刻に仕上がっている。

 

諸橋和子/Kazz Morohashi

アメリカ育ちの日系アメリカ兼イギリス人。英ロンドン東洋アフリカ研究学院にて美術史修士 を取得後、英セインズベリー日本藝術研究所で数々の日本美術と文化の研究と国際的発信・促進に関するプロジェクトに関わる。現在は独自の制作活動やキュレーションも行い、企画は南アフリカから日本やイギリスをベースにした プロジェクトに関わっている。クリエイティブのネットワークづくりにも積極的で、国内外問わず今後も新たな出会いと交流に大きな期待を寄せる。

雷鳥社メールマガジン

“Photo365MAGAZINE&DIGITAL PHOTO LABO”

エディターのイタガキです。

本能で感じるまま表現し続けたい 写真家・桑嶋維インタビュー インタビューvol.1

今週は闘牛、闘犬、闘鶏など独特の世界観と迫力ある写真で、注目を浴びる若手写真家・桑嶋維さんの登場です。今年5月には写真集『朱殷』(求龍堂)を出版。一度見たら忘れられない、見るものの心をひきつけてはなさない、そんな写真を撮る桑嶋さんとはいったいどんな人物なのでしょう。今週より5回のロングインタビューにて、桑嶋さんに深く迫まっていきます。第1回目の今週は幼少時代のお話です。

曾祖母が築いた吉原の家

生まれ育った環境や幼いころの体験が、何かを表現するきっかけやテーマに、何らかの影響を与えることは少なからずある。桑嶋さんの場合は、子供のころの経験から感じたことそのものが、大きく現在の作品に繋がっているようだ。

「僕は、その生まれ育った環境というところでは、半ば勝ったような気がします(笑)」

1972年東京生まれ。

桑嶋さんが誕生から幼少までを過ごした実家は、吉原のど真ん中にある。東京の吉原一帯というのは、江戸時代から遊郭として栄え、かつては日本の遊郭の中でも最大規模のものだった。戦後GHQの公娼制度によって遊郭が廃止とされるが、実際にはカフェや料亭などと看板を変え、遊女たちを求めて多くの男たちが通う場として残り続けたという。

「吉原は、僕の母方の実家なんです。僕の曽祖母というのは、なかなかのやり手実業家だったらしいんです。戦後、東京が焼け野原になった時、曾祖母はここは私の土地よ~!って勝手に決めて、今の新宿や池袋のあたりにも土地を持っていたらしいんですよ(笑)。その中のひとつが、吉原だったわけです」

「曾祖母も、最初は遊女屋、いわゆる風俗店をやっていたらしいんです。今でも、あの辺りには風俗店が150店舗くらいありますけど、戦後の復興期には倍近くあったらしい。それだけ当然競争も激しかったわけです」

「そこで曾祖母は、なんとかして、そのライバルをお客にすることができないかって考えた。そこで思いついたのが、食堂だったんです」

「当時の遊女屋というのは、いきなり男女がひとつの部屋へ入って行為に及ぶ、という仕組みではなく、まずは遊女たちを呼び、お酒を飲んで、食事をする。そうやって楽しんだ後にというような、粋な遊びをしていたわけですね」

「だから、食べ物の需要というのは、吉原には常にあったんだと思います。でも、うちは料亭のようなところではなく、あくまでも普通の食堂。その目の付け所がよかったんでしょうね。普通の食堂を作れば、吉原界隈で働く女の人やタクシードライバーなどが食べに来るんです」

遊女とタクシードライバーに囲まれて

バブル崩壊で景気が傾く以前まで、桑嶋家の食堂の景気はとてもよく、家には住み込みで働く女性が常に23人いたという。住み込みの女性に加え、お店にやって来る遊女たち。桑嶋さんは生まれた時から、日常的にたくさんの女性たちに囲まれて育ってきた。

「風俗の女性が、よくうちの食堂でお客さんと待ち合わせをしていたんですが、お客さんを待っている間、子供の僕を可愛がってくれましたね」

「吉原の街というのは、なにか外の世界とは切り離されているような、まるで吉原一角が紫禁城みたいな感じです(笑)。だから、吉原のど真ん中に住んでいる子供もすごく少なかった。僕は、さながら紫禁城の中のラストエンペラーって感じでしたね(笑)」

食堂にやってくる客の半分は、遊女屋の女性たち。そして残りの半分は、女を求めてやって来る男たちを乗せた、タクシーの運転手がほとんどだったという。

「最近の風俗店というのは、誰にも顔を見られないようにドア・ツー・ドアで入っていけるけど、昔はタクシーでお店に出入りしている人が結構いたんです。それで、タクシーの運転手さんたちは、お客さんを待つ間、うちの食堂の座敷で時間をつぶしていることが多かったんです」

「タクシーの運転手さんって、お客さんを乗せていろいろなところに行く仕事でしょ。運転手のおっちゃんたちから、色んな場所の話を聞かせてもらうのが楽しくてね。だから、一番最初になりたいと思った職業はタクシーの運転手さんでした」

子供の頃から、遊び相手は、もっぱら風俗のお姉ちゃんか、タクシーの運転手さん。そして

「ヤクザのおじさん。今にして思えば、なんですけどね。当時は、大人が着るスーツっていうのは、みんなダブルで縦縞模様が入っているんだと思っていました()。コーヒーをビチャビチャとこぼしながら運ぶ僕に、坊主ありがとうって言って、おだちんをくれたりしました」

東京・吉原のラストエンペラーは、周りにいるバラエティーに富んだ、個性豊かな大人たちと遊んだり、話を聞いたりしながら、人一倍好奇心旺盛な少年となっていった。

何でもありなんだ!

母方の実家は吉原で、商売気質な家系。一方で父方の家系は、元々宮城県の地主で家柄が良く、石巻から仙台へ行くのに、一度も他人の土地を踏まずに行くことができたという。

「親父は、そういう家柄みたいなものに対して、変な自信を持っていましたね」

家柄も良く、一流企業に勤務していた父親だけに、桑嶋さんへの教育指導は厳しかったのではないだろうか?

「うちは両親とも、全くの放任主義でしたよ。それに、うちの親父はね、本当に女性が好きでね、家にはめったに帰ってこなかったし(笑)。家族で夕食を食べるでしょ。食べ終わったと思ったら、じゃあ、帰るか~って親父が言うんですよ(笑)。おいおい、どこへ帰るんだよ~って感じですよね(笑)」

「時々、女性から家に電話がかかってきたりもしましたよ。親父が待ち合わせに来ないからって怒っているんです。仕方ないから僕は親父のふりをして、おい、ちょっとくらい待っとけよ~って言っておいて、後で親父にメモを残したりね(笑)」

「母親もちょっと変わっていて、最近家にいないなと思ったら、バイクでツーリングへ、なんてこともありましたよ。バイクが好きでね。僕ね、子供の頃、車は走っている時にずっとキンコーン、キンコーンってチャイムが鳴るものだと思っていたんですよ。スピード出しすぎの時に鳴る車の警告音が、ずっと鳴っていたんです。うちの母親、かなりのスピード狂だったんですよ(笑)」

「そんな両親から受けた影響はといえば、何でもあり!っていうことですかね」

「吉原の食堂を作った曾祖母も、変わったばあさんでね。生前から稼いだお金は一銭も残さないよと言っていたらしくて、実際に見事に使いきって亡くなりました(笑)」

「何に使ったかというと、一人でクイーンエリザベス号に乗って世界一周したり、南極へ行ったりしてたんですよ!! 確か、南極へ行った女性としては、世界で2番目だったんじゃないかな。だから、曾祖母はいろんな国のコインを持っていましたよ。このお金を使っていた国は、今はもうないんだよなんて話を聞いたりしながら、子どもながらにあ~国ってず~っとあるものじゃないんだって思った記憶があります」

「とにかく、当たり前だと思っている価値観が、次から次へと壊されていくんですよ。吉原という場所にしても、僕の曾祖母にしてもそうですけど、自分の想像を絶する人がいるんだ!って。社会のルールや常識の壁を、ぶち破って押し広げていく人物が、いつも僕の前に現れるんです」

 

本能で感じるまま表現し続けたい 写真家・桑嶋維インタビュー インタビューvol.2

東京・吉原生まれ、子どもの頃から、遊び相手も個性豊かな大人たちという、稀有な環境で育った桑嶋さん。その環境が呼ぶのか、ご自身が引き寄せるのか、行く先々で、刺激的な経験をしながら成長し続けます。今週は少年時代のお話から進学先、イギリスでのお話です。

国内カルチャーショック

桑嶋さんが小学校に上がる年、父親の転勤で、桑嶋一家は大阪へ引っ越すことになった。父親はいわゆる転勤族。その後も、桑嶋さんが小学4年生の終わりから5年生にかけてを兵庫県で、6年生の1年間を愛知県岡崎市で、そして中学、高校時代を同じく愛知県の豊橋市で過ごすことになる。

「最初に引っ越したのは、大阪は東淀川区。そこがまた、当時治安が悪い地域ベスト5に入るんじゃないかっていうような場所でね。本当にいろんなことがあって、面白かったところでしたよ。一般に当たり前とされている概念が、僕の中で常に覆されていくような感じだったんです」

「住んでいた地域がちょっと特殊だったのかもしれないけど、とにかく生まれ育った環境っていうのも、写真をやっていく上で、いろんなネタというか、引き出しというか、すごく役に立っていると思います。おかげで、今も写真の仕事をしていく上で、僕は大抵のことでは驚かなくなりました(笑)」

同じ環境にいても、そこで起こっていること、目にしたことを面白いと思えるかどうか、それは全く人それぞれだ。単に生まれ育った環境によるものだけではなく、桑嶋さん自身が明るく前向きな性格だからこそ、どんなことも新しい発見として楽しめたのではないだろうか。

転勤族の父親について、関西、東海を転々とし、繰り返される転校生という立場が、桑嶋さんの積極性や自己表現能力を培っていったともいえるようだ。

「転校して行く先々では、言葉が違うから、自分からどんどん発していかないと理解してもらえないんですよ。僕みたいに、常に外から入っていく場合には、自分が何を考えているのか分かってもらったり、認めてもらうためには、自分から何らかのアクションを起さなければ何も始まらなかったんですよね。とにかく自分からどんどん話しかけて、積極的にそのコミュニティーに入っていった。生徒副会長も務めましたよ。」

「大阪に限らず、どこへ行ったときにも、僕はそのギャップみたいなものを楽しんでいましたね。言葉だけじゃなくて、食文化とか、習慣の違いとか、同じ日本であっても受けるカルチャーショックみたいなものが、すごく面白かったんです」

「それが、今、まさに僕が写真で表現しているもの、そのものなんですよ。日本にいながらにして感じるギャップの面白さです」

高校も、地元で一番レベルの高い県立高校に入った桑嶋さんだが、進学先とか、将来のことはどのように考えていたのだろう。

「一時期は、医者や弁護士を目指していたこともあったんですが(笑)、大学受験を前に、僕はまた勉強しなくなっちゃった。先生も僕らを大学へ行かせようと必死でね、大学は行ったほうがいいぞ~。ここだけの話な~、先生も昔は…”って感じで、毎日のように説得されましたね(笑)」

なぜ大学に行きたくないと思い始めたのか?

「高校3年生の時に、友達の女の子が『JUNONスーパーボーイズコンテスト』に僕のことを応募したんです。そうしたら、優勝こそしなかったものの、なんと決勝まで残っちゃったの」

「それでもう、地元に戻ってきたら、天狗ですよ。まあ、僕は俳優か何かになるんじゃないのかな~!ってね(笑)。でもね、その後スカウトも何も、一切来ませんでした。今になって冷静に考えてみたら、スカウトが来るわけがないんですよ。まずね、センスがない。今っぽいファッションをしているとか、歌がうまいとか、僕にはそういうものが何一つなかったから」

「田舎者の僕は、一人で、ワインレッドのダブルスーツを着て出たんです。一人ヤング松方弘樹ですよね(笑)。更に、一芸を見せるにあたって、歌を歌ったんですが。本当に、その時まで全く気づかなかったんですが、僕は驚異的な音痴だったんです。だから、俳優にしても、歌手にしても、スカウトが来るわけなかったんです」

「高校を卒業した時点では、俳優になるか、音楽のビデオクリップの監督になるか、この2つしか考えていなかった。僕は音楽が好きで、特にビデオクリップを見るのが好きだったんです。当時、海外留学が流行っていて、それで僕も海外へ行こうと思って、イギリスに渡ったんです。きっかけは、好きなアーティストがたまたまイギリスのバンドだったから。BlurとかOasisとか、いわゆるブリティッシュロック全盛の時期で、僕も好きだったんですよ」

孤独な天才と信じてた

イギリスでは、まず語学学校に入って英語の勉強。セントラルセントマーチン(Central Saint Martins College of Art & Design)への入学を希望していたため、そこのファンデーションクラス(基礎クラス)で、グラフィックデザインや写真の授業を受けていた。

「僕は、映画の勉強をしようと思っていたから、ムービー制作のコースも受講しました。フィルムというのは、24分の1フレーム、または30分の1フレーム、つまり1秒間に24個又は30個のカットが流れるわけです。そこで僕は、“30分の1フレームごとに完璧な絵を作ることができれば、それらのカットの連続であるひとつのムービー作品は、ものすごい傑作になるはずだ!と思ったんです」

“1フレームの完璧な絵を作りたい!!”“やっぱりまずは写真からだそれで写真を始めることにしたんです。イギリスやアメリカでは、ファッションフォトグラファーがミュージックビデオクリップを撮ることが多いですしね。それからは、毎日どこへ行くにもカメラを持って、友達を撮ったり街を撮ったり写真にどんどんハマっていきました」

当時、ファッションのマーケティングを学んでいた桑嶋さんは、写真をもっと学ぶために広告制作の学科に編入した。

「写真で食べていくには、やはり広告系の写真、つまりクライアントがいて、依頼を受けて写真を撮るという方が一般的ですよね。アート系では、なかなか仕事に結びつかないですから。それにアートというのは、自分の中にあるものを表現するのであって、人から教えてもらうものではない。それで、広告業界がどういう仕組みになっていて、どうやったら広告の仕事ができるのかといったことを勉強しようと思ったんです」

それまで、音楽のビデオクリップが好きだったとはいえ、いざ写真を始めてみて、その作品はどんなものだったのだろうか?

「本当にひどいもんですよ(笑)。今はカメラが進化しているから、露出に関してはそんなに問題ないんです。でもね、初めて入れたフィルムで撮ったものが、骸骨の模型(笑)。しかも、その骸骨にポーズをつけさせていて、それがまた本当にセンスがない。その時は、必死で色々と試行錯誤して形を作ったんでしょうけど、でも何をしているのか分かってなかったんですね」

「写真を撮る時には、自分が何を撮りたいのか、何故撮るのか、何をやりたいのかそういったことが一番大切なんだなぁって思いますね」

「僕の場合は、写真を始めたのが22歳だけど、カメラマンを目指す人って結構子供の頃から写真が好きで撮っているような人が多いでしょ。でも、自分が何を撮りたいのかっていうのは人それぞれで、年齢とは関係ないところがある。場合によっては、カメラマンとして売れっ子になってから気づく人だっていると思いますよ」

最終的には、デジタル・フォトグラフィー科に編入。22歳から写真を始めた桑嶋さんとは対照的に、昔から写真をやっていたり、プロの広告カメラマンもいたりとはっきりとした目的を持った生徒たち中で学ぶ。

「課題が出て、その作品についてみんなでディスカッションするクラスがあったんですが、僕はその授業が一番楽しかったですね。僕の作品は発表の後の質疑応答でも、何も意見が出なくて、すぐに次の人に移ってしまいましたが(笑)。今にして思えば、センスなかったんだなぁって思いますけど、その当時の僕は、あ~やっぱり天才って孤独だな~ぐらいにしか思ってなくて、意見がないことなんて全然気にしていなかった(笑)。100歩下がったとしても、僕は外人だから、意見を言っても分からないから言わないんだろうなくらいにしか考えていなかったんです。当時は、本当にそう思っていたんですよ(笑)常に前向きなんです。」

面白いと思ったものを自分なりに撮る

スタジオでの広告写真撮影は、モデルの手配からヘアメイクまで、ほとんど学生同士が集まって、試行錯誤して作品を作っていく。

「大事なのはコンセプトですよね。ファッション写真て、広告でしょ、そこにあるメッセージというのは、クライアントの意向を表しているものだから、僕のものじゃない。それに学生時代に作っているようなファッション写真なんて、そのブランドの企業イメージやCI(企業理念)が含まれているわけでもない。かといって、そこに自分の哲学があるわけでもないから、自分独自のアートとも言えないわけですよね」

「だから、クライアントありきの広告写真というものを、どう表現したいのかが分からなかったんですね。それだったら、何かひとつのテーマの中で、スナップフォトを撮っている方が、ずっとコンセプトがあると思ってました」

桑嶋さんが、広告写真という制約された表現の中に自由を見出したのは、ユーゲン・テラーの写真との出会いがきっかけとなった。

「例えば、クリップオンストロボを直に飛ばして、モデルの目が赤目になってしまっても、そのまま大企業の広告として使われているんですよ。その時初めて写真て自由だな~って思ったんです」

「広告写真が自由というよりは、撮っている人の自由な雰囲気、相手との自由な距離感というのが分かって、それがすごく嬉しかったですね。そこまでいけるのは、稀なケースだと思うし、そういった表現が受け入れられるまで、またそういう立場に至るまでには時間がかかったとは思いますけど。ただ、そういうフォトグラファーの裏側の苦労は抜きにして、当時、一人の一般読者としてそれらの広告を見た時に、すごく自由を感じられた。何でもありなんだぁって。コンパクトカメラで、ノーファインダーでシャッターを切っても全然OKなんだってね」

「学校で習うことって、露出を計ってポラを切って、フィルムは切り現してひとつひとつを正確に確実にこなしていくことだった。それももちろん大事なんだけど、でもそれらを崩す自由があるんだってことがすごく新鮮で、感化されましたね」

その自由でいいんだという気づきは、桑嶋さんの作品の中にはどのような形でいきてきたのだろうか?

「テクニック的なものではないですけど、自分がいいと思ったものを撮ればいいんだって思いました。それまでは、これいいなって思っても、自信を持てなかったりしたんです。本当にこれ面白いのかなとか、本当にこれはきれいなのかな、もしかしたらオシャレじゃないかもしれないって、自分が心動かされたものを撮る前に、ストップをかけてしまうところがあって。」

「でも、そういった自分の中の壁がひとつ取っ払われた気がします。僕が面白いと思ったら、それを僕なりに撮ればいいって。例えば、本棚の中の本が斜めになっていたとしたら、その斜め具合を、自分なりにいかに撮るかを考えればいいんです。そうやって表現することに躊躇しなくなりました」

 

本能で感じるまま表現し続けたい 写真家・桑嶋維インタビュー インタビューvol.3

ムービーの勉強のためにイギリスに留学。そこで写真という表現方法に出会った桑嶋さん。何かをやらなきゃはじまらないと上を向き、行動をし続けるが、写真家・桑嶋維として活躍するまでには、紆余曲折があったようです。今週は帰国をしてからのお話です。

突然の帰国、そして営業

デジタルフォトグラフィー科に編入して半年後の1997年暮れ、当時付き合っていた彼女との結婚を機に退学。しかも父親の病気が発覚し、急遽帰国することになった。4年間イギリスの学校で多くのことを学んだとはいえ、実績も何もないままでの帰国。日本での新たなスタートに不安はなかったのだろうか?

「僕は、オプティミストというか、なんでも良い方に考える人間なんです。本当に深く考えていなかったんですね。ただ、今でもそうですけど、やっぱり自分が面白いと思うものを伝える手段としては、コンテンポラリーな雑誌で最初に表現するのが一番だと思ったので、いろんな雑誌の編集部に売り込みに行きました。でも、当時はいつまでたっても連絡はこなかった。だから、もしかしたら僕の写真って違うのかなって」

結局、義父の紹介で、山梨県で広告代理店へ就職。営業、企画、デザインを担当し、カメラマンに指示を出す立場になった。広告代理店に就職した時点で、桑嶋さんは既に27歳。毎月給料をもらえ、生活は安定した。

「それでも写真は撮り続けていました。写真を撮りたくて仕方がなくて、営業へ行くときにもカメラを持っていましたね。対象物は、山梨県らしいもの。その土地に行かなければ分からない、面白いものです」

ライフワークのように撮り続けたそれらの写真は、2005年『山梨日日新聞』で連載されることになった。週に1回、写真と文章で綴られた連載は、当初6回の予定を超え、全23回の連載となった。

「僕たちの周りには、ちょっと面白いなと思っても、行ってみなければ分からないことがたくさんあるんですよ。そして、僕がその場所に行けたのは、やっぱり写真家だからだと思うんです。写真を通じて、コミュニケーションをとれたり、知らない世界を垣間見ることができるんですよね」

「僕は、こんな面白いことがあったとかこんないい子がいたっていうことを、まず人に伝えたいって思うんですよ。そうやって撮りためていたものや、新たに取材したものを、日日新聞の連載で発表させていただいたというわけです」

「同じ日本国内であっても、カルチャーギャップを楽しむということかな。そういう感覚は、僕の生まれ育った環境、子供の頃の転校生活から感じたものそのままなんです」

やっぱり写真がやりたい!

義父の紹介でせっかく就職した会社だったが、その約1年後に辞めてしまう。

「ある時、仕事で、1億円のスタジオを持つカメラマンの事務所へ行ったんです。事務所や美容室もついて、すごくかっこいいスタジオだった。でも、そのカメラマンは、仕事以外ではカメラを持つこともなく、自分の作品も撮らないって言うんですよ。僕は、こんなに写真が好きで、いつでもカメラを持って写真を撮っているのに。だったら、もう一度勝負してみようと思ったんです」

会社を辞め、再び写真を持って、東京で営業を始めてはみたものの、やはり期待していたような反応を得ることはできなかった。編集部からの電話は鳴らなくても、毎日の時間、生活は規則正しくめぐってくる。とりあえずお金を稼ぐために、桑嶋さんは、自宅近くのレンタルビデオ屋でアルバイトを始めることにした。

「そのレンタル屋さんの先輩にあたる人も、実はカメラマン志望だったんです。東京で写真の学校を出て、カメラマンになるぞ、という矢先に父親が倒れてしまい、地元の山梨に帰ってきたらしいんです。彼は、広告写真をやりたかったみたいで、僕はいろいろな話を聞いて勉強させてもらいました」

ある時、写真展を見るために先輩に連れられて行ったのが、山梨県立美術館だった。

「二科展か何かで賞を受賞した人の写真展でした。また僕の悪い癖なんですけど、その作品を見た時に『この人が写真展をできるなら、僕にできないわけがない!』って思っちゃったんです(笑)」

「そこで僕はさっそくイギリスで撮った自分の作品を持って、美術館に直接交渉に行った。そうしたら、キュレーターの方が一発OKしてくださって、一番大きな会場を貸してくれたんですよ。『僕の作品で、この山梨にも風穴を開けなきゃ!』って、それがそのまま写真展のタイトルに。『エアーホール2000』です(笑)」

写真展の開催が決まったと同時にアルバイトを辞めた。『また僕の悪い癖なんだけどね』と桑嶋さんは言うが、それだけの強い思いと行動力がなければ、今の桑嶋さんのスタイルはなかったのではないだろうか。何かに対する思い、はあっても、めぐってくるチャンスやタイミングをうまく自分のものにできる人というのは、なかなかいないのかもしれない。

僕のサンクチュアリ

山梨での写真展が決まる以前から、東京での営業活動は地道に続けていた。そんな桑嶋さんに、ある一つの転機が訪れる。

「ある日、『DUNE』という雑誌の林文浩編集長から突然連絡がきたんです。今度サンクチュアリというコンセプトで、9人の若手写真家による写真を掲載するんだけど、それに参加しないかって。その他の8人は、錚々たるメンバーでした。吉永マサユキさん、石坂直樹さん、菊池修さん

一人一箇所ずつ場所が振り当てられ、桑嶋さんが担当したテーマは富士山。新しく出版された写真集『朱殷』にも掲載されているが、桑嶋さんが撮影したサンクチュアリは、薄紫色に染まる富士山を背にした小さな墓地に、おばあちゃんから孫までの親子3世代がいて、その空間を夕日が照らしているというものだった。タイトルは『祖霊家ラ』(それから)。

「富士山って、日本人にとって昔から何か特別な山なんですよね。父権の象徴だったり、霊山として祭られたり様々なものの象徴だったりするんです」

「この写真を撮影した場所は、山梨県の忍野村。忍野八海という湧き水で有名な土地なんです。お墓というのは、昔から、その村の中で一番景色のいい場所に作るでしょ。しかも、このお墓は後ろに富士山がそびえ立っている。だから、この場所というのは、きっと何百年も前から人々にとって特別な場所だったんじゃないかと思ったんです」

「そこに写っている3世代にわたる4人の家族は、古いものから新しいものが、ひとつの輪になっているような絵にしたかった。サンクチュアリと呼ばれるようなところは、時代や流行的なものに流されない、ということを表したかったんです」

 

本能で感じるまま表現し続けたい 写真家・桑嶋維インタビュー インタビューvol.4

ある一本のビデオとの衝撃的な出会い。『闘牛』というドキュメンタリー、その中でもかなりのコアな分野のものでした。桑嶋さんは、このようなテーマと向き合い、果たしてどのような方法で発表していったのでしょう。今週は写真集制作について詳しくお話いただきます。

闘牛で価値観が崩された

雑誌『DUNE』での写真掲載後、桑嶋さんは、ずっと興味を持っていた闘牛写真の掲載の話を持ちかけた。

「僕は、自分が面白いと思うことを伝えたい、というのが一番にあって、それができる環境、媒体や編集者の方などには、機会あるごとに自分の思いを伝えてきたんです。『DUNE』の編集の方にも以前から闘牛の話をしていて、わりとすぐにページを組もうかというお話をいただきました。それで、徳之島へ取材に行くことになったんです」

桑嶋さんが闘牛に興味を持ったのは、イギリス留学中に一時帰国した時だった。妹の知人に徳之島出身の人がいて、その人から闘牛のビデオを見せてもらったのだ。

「本当に衝撃的で、それまでの自分の価値観が覆されました」

「僕の中でいいと思っていた今までの価値観が崩れて、海外ではなくて国内に目が向くようになった。それと同時に、自分自身にも自信がついたんです。というのは、転校が多かった僕は、子供のころから国内のカルチャーショックを体感して、そのギャップを常に楽しんできたでしょ。そういう、僕のバックグラウンドにあるもの、僕が持っているものを表現すればいいんだって。徳之島の闘牛というのも、まさに国内カルチャーショックだったわけです」

「もちろん、海外に行って写真を撮るというのもいいんですよ。でも、僕には、生まれ育った環境、日本国内を転々として感じたこと、僕の生き方そのものを表現できることの方が面白いと思えたんです」

DUNE』で闘牛の写真を発表すると、それを見た雑誌『STUDIO VOICE』の編集長から面白いとの反応があり、闘犬、闘鶏、錦鯉などの写真と文章で、半年間の連載をすることになった。

写真集への第一関門

桑嶋さんが、衝撃を受け、伝えたい、表現したいと思ったテーマ。それがようやく写真集という形になる。

「僕の中では、やっぱり写真集が、一番のプレゼン力がある媒体だった。今はビデオやDVD、インターネットなどたくさんあるけれど、写真集は何もデバイスがいらないし、その場で、はいと見せることができる。それに、手で触れる、触角に残るものは、視覚よりもより残るのではないかなぁとも思うんです。アナログだけど、ビジュアルの最大限の伝わり方です」

「一番はじめの写真集『闘牛島徳之島』の場合は、とりあえず、闘牛、闘犬をまとめたBOOKを持ってまわりましたね。仕事の営業でもありましたが、こういった面白いものがありますから、やりませんか?という感じでお話していました」

「歴史的に価値があるものだけど、これが面白いと思うのは、僕の主観も入っていますからね。僕の提案というのが、果たして一般的にも必要があるものなのか、ということも含め、いろんな雑誌の編集者に意見をお聞しました。自分の中にもフィードバックすることができるし、営業に持って行くブックにも反映させたりしていましたね」

そして、めでたく一冊目を出版したその一年後、早くも2作目の写真集となる『朱殷』を出版する。

「写真集『朱殷』を出版できることになったのは、知り合いのギャラリーの方が、今回出版していただいた求龍堂の編集者の方をご紹介してくださったのがきっかけでした」

「実は最初の一冊目の写真集『闘牛島徳之島』を作っている段階から今回の企画があったといっても過言ではないんですよ。音楽でいうと、アルバムが『朱殷』ですね。いずれは錦鯉は錦鯉だけ、闘犬は闘犬だけ、一つずつ出していきたいと思っています。闘犬というと、高知でしかやっていないと思われているようですが、実は全国区ですし、世界版だって作れる程なんです」

一般的には闘犬というと、しめ縄をつけた土佐犬というイメージは浮かぶが、闘っているシーンや犬そのもののフォルムというのは、なかなか見る機会がない。しかも、競技とはいえ、闘犬だけに限らず、闘牛も闘鶏も、出版するにはデリケートな被写体ではないだろうか。写真集を出版するためには、どのような経緯があったのだろうか。

「はじめは、ファイルにまとめた大きい写真で、いくつかの種類のBOOKを見ていただきました。今回の闘牛、闘犬、闘鶏、錦鯉など今回の写真集に出てくる被写体はどれも表に出てきているものではなかったので、難しかったかもしれません」

写真集を出版する経緯はさまざまだか、企画がある場合、通常、一人の編集者が企画を持ち込み、会社内で議論、OKが出なければ出版はできない。企画の段階でもふるいにかけられ、出版までは、数々の問題をクリアしていかなければならないのだ。

「まずは一人の編集者に、いいなぁと思ってもらわないといけないんです。そして、会社に企画を出していただくというのは、第一関門というか試験みたいなものです。例え批判的な意見があっても、それぞれのプロの目で見ていただけるので、すごくありがたいこと。僕と編集者がいいと思っても、それが他の人に伝わらないこともありますからね」

桑嶋さん自身も、ビデオを用意したり、それぞれの歴史の資料を用意したり、写真だけではなく、さまざまな資料を提示したという。

「『Number』のアテネオリンピック号ではセンターカラーの8P、『STUDIO VOICE』では半年間の連載、『新潮45』は文章を入れたものとか。今まで雑誌等で掲載したものに関しては、だいたいお見せしましたね。それは、世の中にもニーズがあるということだと思うので、プレゼンの中に入れました」

「闘犬や闘牛は700年くらい昔からあるものですが、世間一般からしたら、新しい価値観みたいなものを提示することになると思うんです。ですから、その新しい価値観を果たして、どれだけの人が受け入れいれてくれるかという問題に関しては、議論するべきだし、逆に、その価値観を伝えるためにどうしたらいいかを検討する時間も大切なプロセスでしたね」

信頼するよき理解者たちとの出会い

「通過させてはいけない、伝えずにはいられない。だから、一度写真集を開いた人には、一生トラウマとして残るくらいのインパクトのあるビジュアル性で行きたいと思っていたんです」

「冒頭にある闘いの写真や、血が飛び散っている写真は、特に雑誌では、スポンサーが下りてしまう場合もあるので出しにくい。クレームがくる場合もあります。でも、闘いでの流血など、エネルギッシュで迫力のあるシーンがなければ、今回の写真集のコンセプトも薄れてしまう。それにモノクロだけになってしまったら、今回のテーマの一つである血の色、それぞれのアイデンティティとして、何もかもが共有できるというコンセプトが、きちっとページの中で生きてこない。この写真集を出す意味もなくなってしまいますからね」

「そういった意味でも、僕の写真を理解し、興味を持ってくださる編集者に出会い、美術書の出版社で出版させていただけて、僕はものすごくラッキーだったと思います。僕というよりは、僕が撮っているもののパワーが伝わったんでしょうね」

「構成に関しては、僕はもともとPV(プロモーション・ビデオ)の監督を目指していたので、ビデオクリップの感覚で編集していったという感じです。例えばビデオだと30分の1フレームで動いていくわけだけど、印刷の場合は、今回の版型だと1折16ページ。16というのをワンフレームにして、積み重ねて行きました。映像の編集のようにですね。そして余白を作らず、立ち落とし(全面写真)にする。なので、必然的にテレビの画面を見るような感覚に近く仕上がったと思います」

写真の構成は、はじめに桑嶋さんが並べたものを編集者に見てもらい、その後はアートディレクターが加わり、作り上げていった。

「今回も前回の写真集同様、アートディレクターには、フィッシュデザインの大橋さんと落合さんというユニットで活躍されている方にお願いしました。僕が最初に仕事をいただいた『DUNE』のアートディレクターだった方で、その時知り合ってから、ずっと公私ともにお付き合いさせていただいている方です。仕事もそうですし、作品の方向性とか、どういう手法で撮るなど、相談し、いろいろ積み重ねてきたある意味チームともいえる方々です」

編集者、そしてアートディレクターなど、信頼できる人たちとの出会い。クリエイティブの世界では、1+1+1=3ではなく、10にも100にもなる程のパワーが産まれるのだ。

「誰かに依頼されて作っている訳ではないし、僕自身がやりたいと思ったことに賛同してくれて、またそれを僕だけの世界だけではなく、世間に出すために、ビジネスにまで考えてくれた編集者と、またよりよく演出してくれたデザイナーのアートディレクションの力はとても大きいですね」

「ドライに言えば出版というのは仕事かもしれないけれど、みなさん仕事の枠を超えて、徹夜をしながらもいろいろ考えてくださったりして。この出会いは、僕にとって本当に財産ですね」

「ですから、こういうチームというか、一つのものを作り上げるためのというか・・・、この目に見えないがあるからこそ広がっていくんだと思います。また、そうなる自信もありますし、それがあるからこそ、伝わっていくんじゃないかなと思います」

「写真集を出したい方はたくさんいらっしゃると思いますが、実は、この理解力のある編集者と出会うというのが一番時間のかかることかもしれませんね」

 

本能で感じるまま表現し続けたい 写真家・桑嶋維インタビュー インタビューvol.5

よき理解者たちと強力なチームワークで桑嶋さんの写真集『朱殷』が完成しました。最終回となる今週は写真集に登場した人々たちとのエピソードをお伺いしています。また、みなさんへのメッセージもありますので、お見逃しなく!!

一枚の写真に写るドラマ

信頼できる人たちとの出会いが結実した写真集『朱殷』を出版。切り取られた一瞬の迫力と強さ、その美しさ。被写体にもなった各関係者の方たちは、初めて見るプロが撮った写真に感激し、とても喜んでくれたという。

「僕の写真に快く協力してくださった関係者の方々、写っている動物たちもそうですが、それを支えている人々の真剣さ、そのドラマがいろんな形で想像できると思いますよ」

「例えば闘犬でいうと犬は一番身近な動物なので、関係者の方々もすごくデリケートです。一般的なオムニバス形式の写真集というカタチで発表させていただいたのは僕が始めてだと思います」

「写真集の中に闘犬大会の前に関係者の方々が一列に並んだ写真があるんですが、これは青森の支部の方の写真です。遺影を持っていた方がいらっしゃったので、気になってお聞きしたら、全国大会に行くのが決まったあとに急死されてしまった方だったんですよね。亡くなった方も本当に犬を愛していらっしゃった方で、仲間の人たちが、その方への弔いをかねて犬を出場させたんですよ。しかも、その試合中、ずっと遺影を持ってその遺影に話しかけながら応援しているんです」

「そこまでの情熱というのは、普通ないですよね。単なる趣味ではなく、それを超えている。僕が知り合った闘犬家の方たちは、横のつながりがあって、みな助け合っています。深い絆が犬を通して芽生えるというのは、もう趣味のレベルじゃないんですよ。ドライな人間関係とは違うんです。それは、闘犬だけではなく、闘牛、闘鶏、それぞれの関係者の方々も同じ。動物と人とのつながり、そして動物を介しての人同士そのつながりにはものすごい愛があるんです」

「もともと闘犬は武士道で、士気を高揚させるために始まっているので、関わっている方々は、みな侍魂を持っていらっしゃいますね。純粋に取り組まれているんです。闘牛にしても、闘犬にしても、大会にはみなさん家族でいらっしゃっていて、みんながファミリーのような感じなんですよ」

「闘牛や闘犬だけじゃなく尾長鶏や錦鯉なども、みんな真剣に、強さや美しさを競っている。この読者のみなさんも是非観に行って欲しいですね」

「美しさや強さというのは天賦のものであって、なろうとしているのでなく、もうすでになっているものなんですよね。僕は、それを崇めたたえるために、表現したかったし、この本を作りたかったんです。ですから、なるべくしてなったものを享受してたたえるということも、一つの楽しみのあり方のような気がするんですよね」

表現方法にはこだわらない

今後も撮り続けて行かれるのですか?

「今後も続けたいテーマでもあるので、写真集というだけではなく、PV(プロモーションビデオ)などいろんな分野のものともコラボをしていくのも、いいのかなと思います」

「僕自身は、表現するものには、実はこだわっていないんです。次は、文字に行くかもしれないし、映像に行くかもしれない。自分の伝えたいものを、自分が表現できる一番いい手法を使って演出すればいいんじゃないかなぁと思います」

「以前、メンズノンノの仕事で、人気のブランド・ネイバーフッドのデザイナーの滝沢さんにお会いしたことがきっかけで、ネイバーフッドでも、闘牛、闘犬、闘鶏の写真でコラボしていただいたこともあります。ブランドの力というものは、大きいですけど、血だらけの格闘シーンの写真がプリントされたTシャツを、若者たちが着て、原宿やら表参道やらをデートするのかと想うと、まさかと思いましたよ。だから、本当に完売したとお聞きした時は、びっくりしました(笑)。その時は、店内にも闘牛、闘犬、闘鶏の写真をディスプレイしていただきましたね」

それは、今回の『朱殷』の写真集を見ていただければ一目瞭然。桑嶋さんの写真は、強さの中に美を感じるアートなのだ。デザイナーもTシャツを着る若者たちも、グラフィックとして、その写真の中に光るアート性を感じたのだろう。

自分のステージで撮ればいい

最後に、これから写真で食べていきたいという人へメッセージを伺った。

「写真家っていうのは、他の仕事をしていてもできると思うんです。お医者さんでありながら、タクシーの運転手にはなれないけど、医者をやりながら写真家にはなれるんですよ」

「いわゆるカメラマンというのは、写真でご飯を食べている人だけど、写真家というのはそうじゃなくてもいいと思う。写真でご飯を食べていないからって、写真家じゃないとは言えないと思うんです」

「タクシーの運転手をやっていても、厨房で働いていてもいいんです。その人なりのステージで表現したい写真を撮ればいいわけで、そうやって撮ったものは一つのものにまとまると思う。やりたいこと、撮りたいもの、表現したいものがあればできるわけですからね。写真家になりたいなら、そうした方がいいかもしれない。その方が、余計なストレスがたまらないと思いますよ」

「最初の時点で、写真家になりたいのか、カメラマンになりたいのか、それは決めた方がいいと思いますよ。写真家としての活動と、それ以外のカメラマンとしての仕事を両立できるならやってもいいと思う。僕は、写真を撮ることが本当に好きだから、自分の作品以外の仕事でも楽しんでできるんです。でも、そうじゃないのなら何がなんでもカメラマンになる必要はないと、僕は思いますよ」

UNEARTHED / インタヴュー

「土偶」を作品の対象とされた理由は?

久遠(くおん)

ある日、文字や言葉を持たない時代の人々は何をどう伝えていたかという疑問が湧いた。他者との意思伝達はかなりの困難であったろうと容易く予想出来るからこそ、それでも伝えたかったことに、時代や国、人種を問わない真実が宿っているのではと考えたからだ。日本では五世紀ぐらいまでの時代が文字不在の下での物質文化社会を形成していた。僕は、遺物の醸し出す誘引性に魅せられるまま、先人たちにそれらを作らせる事となった動機を探るべく自身の意識の内へと潜入する。死して、朽ちて、滅びてもなお伝えるべきものー真を遺物より知る。

文明の歯車である僕の使命は真を写して久遠の生命を吹き込む事だと信じている。 他の考古学的な作品対象物としては、「石室」などの、所謂、「墓」を撮影している。人類共通の最も恐れることである「死」を僕たちの祖先がどう捉えてきたのかを知ることにより「生きる」ことを観念でなく実感するためでの作品である。

初めて土偶を見た時は?

初めて土偶を見た時の僕の反応は、映画「猿の惑星」(1968)の主人公テイラーになった気分だったのを覚えている。映画のラストシーンで、テイラーは崩壊した自由の女神を発見し、自分が時を越えて故郷である地球に帰って来ていたことを知り愕然とする。僕にとって土偶との出会いは、まさにテーラーにとっての自由の女神と同じだった。

アーティストとして、あなたにとっての「土偶」の意味とは?

無文字の手紙

縄文時代に作られた土偶のモデルはほぼ女性だ。土偶や一部の土器は、生活品や道具と違って、石棒や石剣と同様に祭祀道具である。人口が減少する縄文後期に多く作られたことや、そのモチーフからして、子孫繁栄、すなわち、子作りや安産を願ったものと云われている。人が最も恐れる事は「死」であり、最も喜ばしいことは「誕生」である。

「死」は無に還ることを意とするが、「誕生」は、先人が生み出し、作り上げた知の継続と発展を意とする全人類共通の認識だ。

僕たちが受け継いだ様に「次」の担い手を誕生させて育てる責務が僕たちにはあるということを土偶や土器は教えてくれる。

無文字社会の縄文時代においては、「伝える」ということは決して説明することでなく、考えさせると言う事なのだろう。魂は形を欲する。

次世代の生命に魂を入れて命とし、知識に心を入れて愛とし、育てていくのである。

土偶や土器は、縄文人たちから僕らへの文字の無い手紙だった。

あなたが作品を制作する時に、土偶が特別にもたらす影響とは?

すでに五千年の時を超えて現れた土偶だが、僕は新たなる「土偶像」を創り命を吹き込むように挑戦している。

「写真作品」制作の時は?

土偶を既存にない新たなる解釈が出来るような写真を創りだすことにより、それらを見た人々の中で真新しい土偶像が生まれ、語り継がれるように願っている。

土偶の写真作品をネガのようにプリントして制作したのはどうしてですか?

通常の撮影、プリントでは人(縄文人)が土偶を作り出す際に刻んだ箇所や線が黒く沈んでしまう。僕は、製作者(縄文人)が刻んだ一つ一つの線こそが、彼らが自身の作品に吹き込んだオリジナリティーの証であり、人それぞれが持つ指紋と同じではないかと考えた。

僕はそれらの線を暗闇から解き放つために、ネガティブをポジティブとした。

外部リンク

the Sainsbury Centre for Visual Arts (SCVA)